【この気 なんの気 気になる記】

〜JAM語る指数(Catharsis)何%?〜

母の日に・・・

「お母さん」「母さん」「おかあちゃん」「かあちゃん」「ママ」「オカン」・・・
各家庭で母親の呼び方は様々。いや、各子供によって様々というところ。
遡れば、弟はいつのころからか母を「オカン」と呼ぶようになっていた。
おかあさん ⇒ おかぁーさん ⇒ おかーぁん ⇒ おかーん ⇒ おかん (バンサーイ!x2)
この変化を考えれば「オカン」も分かるのだが、私は「オカン」と言った事がない。
母親離れをした男の子が、その証明のように使う言葉なのだろうと思っていた。

そんな思いもあって、
いつか私も息子達に「オカン」と呼ばれる日がくるだろう。と待ち構えていたのだが、
いつまで経っても私は「母さん」だった。
長男が高校生、次男が中学生の頃だっただろうか二人を前に
私「あんた達、お母さんの前では母さんて言うてるけど、
 友達内ではオカンとか・・ばばあ・・とか言うてないん?」

長男「いいや〜 なんで?」

私 「男の子は年頃になれば、オカンとか呼ぶようになるのかな
   って思っててんけど・・
   腹立つこと言われたら、ばばあとか・・TVでやってるやん?」

長男「俺らの友達にもオカンって言う奴はおらんな〜 ばばぁも今のところない。」

ずっと黙っていた次男。「ドラえもん・・・やろ?」
私に聞こえるか聞こえない声で、長男に囁く。
顔を合わせて笑い合ってる息子達にすかさず私。
(ドラえもんと私の共通点を考えながら)
   「なんでお母さんがドラえもんやのんっ!?あそこまで丸っこないやろ?
    手もグーだけちゃうし〜」

二人の説明によると、
私が家に帰って来る時は、キーホルダーに付けている鈴の音が遠くから聞こえるらしい。
どちらが言い出したのか・・・「鈴鳴ってるでぇ〜」「帰ってきたで〜」
「近付いて来たで〜」「ドラえもんやん!」となったという。
おまけにその頃私が常に着ていたプルオーバーのウインドブレーカーは
お腹のところにポケットが付いていて、「ドラえもん」の決定打であったらしい。

春先からこの時期にかけて未だに、お腹ポケットウインドブレーカーは活躍し、
鍵には鈴も付いている。
今も「かあさん」と呼ばれているものの、「ドラえもん」からは卒業できそうにない。

想い出 | コメント:4 | トラックバック:0 |

13回忌 1・17

1995・1・17阪神淡路大震災から12年になる。
前年の12月、母の葬儀を終えそのまま大阪に留まっていたが、
子供達の始業式を前にして福岡に戻り、一見以前と変わりない生活を送っていた。
しかし、寂しさでポッカリ穴の開いた左胸のあたりはいつも風が吹き抜けていくようだった。
母の名残のあるものを目にし母の面影が頭を掠めるたびに涙が零れた。
そんな日が続く中、この日の朝もいつものようにリビングのテレビを点け、音声にだけ耳を傾けながら
次男の幼稚園のお弁当を作っていた。
最初に入った地震情報は兵庫県芦屋の被害しか伝えておらず
私も「兵庫県で地震があったのか・・・」とそれほど気にも留めていなかったが、
高速道路が斜めに傾いて倒れている様子が画面に映し出されたとき、この地震の大きさに驚いた。
一年前に起こったロサンゼルスの地震で高速道路が波打って壊れていた映像と重なったが、
その後に起こる事態は、私達の予想を遥かに超えるものになっていった。
中継ヘリコプターからカメラが捉える壊滅状態の町。
所々にモクモクと立ち昇る煙・・・。
煙はやがて燃え上がる炎となり、
消防車が現場に到着するのもままならない町は、みるみるうちに火の海と化していった。
次々と映し出される惨状に言葉を失ったのは私だけではなかっただろう。
犠牲者の数は増え続け留まることを知らないかのようだった。

この地震で肉親や最愛の人を亡くされた大勢の人々に、自分の悲しみを投影させて涙が溢れたが、
私が母を失った悲しみなど取るに足らないものだろうと感じた。
その別れ方は残酷で、尋常ではない様子を見聞きするたびに心が痛かった。
私にとって阪神淡路大震災は、命の儚さを身に滲みて感じていたところに念を押すような形となったが、当たり前の悲しみの中に沈んでいた自分を見つめ直せた出来事でもあった。
人間の力の及ばない自然の恐ろしさ、人間が作ったものなどいとも簡単に壊してしまう自然の驚異を目の当たりにし、活断層なる言葉も始めて耳にした。大阪に走る活断層が公表され、大阪が活断層だらけであることに驚き、日本のどこで大地震が起こっても不思議ではないほど日本が地震大国であることを思い知った。この震災で犠牲者は6434人にも及んだが、この人数の中に含まれない多くの犠牲者もいることだろう。
犠牲になられた方々の無念と命の重さを受け留め、
沢山の犠牲者のうえに多くを学べたことを忘れずに、、、
13回忌の今日は、阪神淡路大震災で亡くなられた方々の御冥福を心から祈りたいと思います。

想い出 | コメント:0 | トラックバック:0 |

母の命日

12年前の今日、母の呼吸器を外した。
12月8日が母の命日になった。

医師から「脳死」判定を受けているものの、
「脳死」というものが分からない。
人工呼吸器で命を繋いでいる母。
医師の言うように、心臓が止まるのを待つだけなら
一日も早く家に連れて帰りたかった。
私たちは『延命の中止』を選択した。
想い出 | コメント:3 | トラックバック:0 |

12年前の今日

1994年、福岡に住んで4年になっていた。
沖縄出張から帰ってきた主人が沖縄のお土産だと、魔除けのシーサーの置物を
テーブルの上に二つ並べたとき、なんとも言えない嫌な気持ちになった。
と同時に電話が鳴った。21時・・弟からだった。
「今、おふくろが倒れた。卒中やと思うわ。呼びかけたら反応はあるんやけど・・
覚悟しといたほうがええかもしれん・・。救急車はあと5分程でくると思う。
・・病院着いたら、また連絡するから!待ってて!!」
弟の声の雰囲気から母の容態が良くないのを感じる。
・・もう母と話せないかもしれない・・・母が死ぬ・・。
病気と病院には縁のなかった母は、私たちに心構えをさせる期間も与えずに逝ってしまうのか・・・。
良いようには考えられなかった。(テーブルの上に並んだシーサーを睨んだ。)
一週間前に中学校の学年同窓会に出席するために大阪の実家に帰ったばかりである。
あのときの母の姿が、元気な母の最後の姿になるのか?

弟の電話を待ちながら、一週間前の母との時間を思い出していた。
当初、同窓会のために大阪に帰るつもりもなく、欠席の届けを出していた。しかし、急に行こうと思い立ち、数日前ではあるが幹事に無理を言って出欠の変更を頼んだ。
帰省するときはいつも連れていた子供二人を夫に任せ、バタバタと大阪に向かった。
何故私は大阪に帰るんだろう・・・そんなに同窓会に出たかったのか・・・。
あとから考えると本当に不思議なのだ。母に会うために帰ったんだろうと思う。
その夜、母が「一緒の部屋で寝よう。」と言い、私は別の部屋に用意をしていた布団を母の部屋に運んだ。
枕を並べて母と二人っきりで寝るのは、私が結婚して以来のことだった。
女二人で四方山話。。そのうち母が引き出しから一枚の写真を取り出した。

「Jamちゃん 写真はこれにしてや。」見ると、コスモス畑をバックに母の姿。
裏には、  
        平成6.10.16
        ○○ ○○子 65歳    と母の字が書かれていた。
思えば、その年のお正月に帰省したときに、写真嫌いの母に私が言ったこと。
「そんなに写真撮るのん嫌がってたら、写真なしでお葬式せなあかんようになるで。いつお迎えが来てもいいように、祭壇用やと思って写真いっぱい撮ってもらい。自分の気に入った写真を祭壇に飾りたいやん?ピンボケのブッ細工な写真や昔の写真を遺影にするのん嫌やん?」と言って笑い合ったのだが・・・。
母はそれを覚えていて、この時、祭壇用の写真を私に託した。
まさか本当にこの写真を一週間後に祭壇に飾ることになるとは思いもしなかった。
そのうち同窓会でお酒も入り微睡んでいく私にいつまでも話しかける母。私は母の声を聞きながら・・適当な相槌を打ちながら・・いつの間にか眠ってしまっていた。
あくる日、福岡に戻る私に「新大阪まで付いて行くわ。」と言い、駅のホームで見送ってもくれた。
あんなによくしゃべる母を見るのも最初で最後のことだった。


何も手につかず、取りとめもないことをボンヤリ考えているところに、
弟から二度目の電話が入る。
「今、看護婦さんが呼吸器を持って治療室に入ったわ。自発呼吸が出来んようになったんかもしれん。姉ちゃん明日の朝一でも大阪帰ってくるか?先生の話聞いてまた電話する。」

この出来事を冷静に受け止めようとしている。
頭で理解し納得しようとしている現実を 心が感じ取らないように頭が頑張っていた。


弟からの三回目の電話は絶望的なものだった。
母はクモ膜下出血だった。脳の一番大切なところが出血し、検査中にもう一箇所からも出血したらしい。手術をしても成功率は1%で、成功しても意識が戻るかどうかは分からないというものだった。
自発呼吸はなく、呼吸器のおかげで心臓だけが動いている。
「手術するか?・・・・もうええな?」 電話の向こうで弟の元気のない声。
「うん。そんな成功率に賭けて頭開かれるの、お母ちゃんも望まへんと思う。」
「分かった。手術はせえへんで?呼吸器付けてICUに入ってるけど、兎に角、明日来て。
・・・・喪服の用意もしておいでや。」

母の最期を弟と二人で決めることになった。

想い出 | コメント:0 | トラックバック:0 |

13回忌

12月8日の命日を前に、
今日は母の十三回忌法要でお寺に参ってきた。
東京の多摩市と大田区に居る母の兄弟には声を掛けずに
弟夫婦と私と息子たちだけで母を偲んだ。
誰もが抗えない「死」がもたらす別れがくることを
考えないわけではなかったけれど、
この世で一番好きだった人との別れは突然にやってきた。
もう12年にもなるんだな・・・

想い出 | コメント:0 | トラックバック:0 |

ニュースから

土砂崩れ防止用壁から助け出された野犬は、
その後、里親希望者が殺到して野良生活からも脱出できそうだ。
一匹の野犬の命を救うためにレスキュー隊が出動し、
複数のTV局が一部始終を中継しようと詰め掛ける。
人々に見守られて命拾いし、これから先、安住の地が待っている『崖っぷち犬』は
今のところ、超ラッキーだったと言えるだろう。
何が幸いするか分からないのは、人間も犬も同じだなと思った。
一方では、海外で犬に噛まれた日本人が狂犬病を発症したという。
日本では36年ぶりのことらしいが、一人が亡くなられ、
二件目の発症者の報告もあったようだ。この二つのニュースを見て、
ここ数年(十数年か)、野犬(野良犬)を見なくなっていたことと
私の頭の中から狂犬病という言葉が消えかけていたことに気付かされる。
そして、遠い昔、OL時代に野犬に囲まれたことを思い出した。

残業を終え、人通りのなくなったオフィース街を駅に向かう美人OL三人組。(3バカ大将)
駅への近道だからと大きな駐車場を横切ることにした。
駐車場のド真ん中に来たころ、一匹の野犬がスッと近づくや否や
私たちの前で足を止め「ウゥーー」と唸り始めた。(ごっつ低音の魅力。。)
3バカの中で一番の若手が危険を察知して逸早く遠くへ逃げ切った。
鈍臭く逃げ遅れた私達を囲むように唸りながら後から近づいて来た四匹も合流し、
五匹の野犬を目の前にして、もう走って逃げることは出来なかった。
遠くから黒いシルエットが近付いてきてアッという間に円陣になる光景は
『野生の王国』の狼そのもの。目つき悪っ!
ある一定の距離からは私たちに近付きもしないが、五匹がずっとクインテットで唸り続けている。
こちらのアクション次第では、直ぐにでも飛び掛って来そうな気迫が充満していた。
強行突破で逃げることも躊躇われた。怖〜っ!
「どうするおつもりですか?」犬達に訊きたかった。
私のポーズはと言うと、左足を『くの字』にして浮かせて、軸にして立つ右足にぴったりとくっ付け、
両腕の脇を閉めて小さくファイティングポーズ。
(戦うつもりはさらさらなく早い話が胎児のポーズ)固まった身体はカッキンコッキン!

もう左足は覚悟していた。「噛ませるなら左足だ。。」と諦めたとき、
私より賢かった相方が、サッと中腰になり地面に手をついて石を拾って投げるふりをした。
地面はコンクリート。石もないのに・・・。相方の機転に関心している場合ではない。
一瞬、犬たちが怯んで円陣が広がった隙を目掛けて、夢中で駆け出した。
懐かしのカール君にも勝てそうな猛ダッシュで駐車場を横断し、
遠くから思いっきり高笑いしている一抜けの若手の元に、恥ずかしながら辿り着いたのだった。
振り返れば、野犬達は真剣に追いかけてもこなかったようで、
さっきの場所とあまり変わらないところでタムロっていた。
(野犬愚連隊にからかわれてたのかな・・・。暇つぶしの相手にされてたのかな・・?)
犬猫の大好きな私だったが、群れを作った野犬の怖さを思い知った出来事だった。

このとき左足を捧げることを覚悟した私。太ももの肉が無くなることは想像したが、
狂犬病の単語は思い浮かばなかった。
日本で発症して亡くなられた方が居たことでクローズアップされることになった狂犬病だが・・・
狂犬病とはいうものの、哺乳動物の全てが感染する病気であること。
ウィルスに感染した動物に噛まれて発症すれば死に至ること。
その症状も傷口の痛みや幻覚症状、痙攣、水を怖がるというもので、
映像を見てより一層この病気の恐ろしさを知った。
野犬が予防接種を受けてないのは言うまでもないが、
飼い犬の半数以上が予防接種を受けていないらしい。
今までの私が無防備過ぎたのかもしれないが、これから可愛い動物達に近付くときに、
『狂犬病』の3文字が頭を掠めるかもしれないと思うと・・・少し寂しい気がするのだが。

想い出 | コメント:2 | トラックバック:0 |

鹿寄せ、客寄せ

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の
              声聞くときぞ 秋は悲しき

                              猿丸大夫

「紅葉と鹿」「鹿は秋」という取り合わせが始まった歌である。
物悲しい秋を詠んだ歌で、この時節必ず頭に浮かぶ好きな歌の一つだ。
人に守られた奈良公園の鹿の群れしか知らない私にとって、
野生で生きる雄鹿の姿と紅葉がダイレクトに浮かび
幻想的でロマンチックな歌だと感じている。

しかし、現実は、
今日から奈良公園で「鹿寄せ」が始まったというニュースを見る。
例年なら1月〜3月にかけての行事なのだが、
観光客集めのために今年はこの時期に催されるそうだ。
県やホテル・旅館業界が鹿を管理する「奈良の鹿愛護会」へ依頼し、
今日から12月8日までの平日午前9時から約15分間行われる。
愛護会の職員がホルンで吹くベートーベンの『田園』のメローディーに誘われて
2,3分で100頭近くが寄ってくると言う。(高尚なお鹿様)
本当はその後に投げ与えられるサツマイモに誘われてくるのだろうから
ラッパのマークの正露丸のメロディーでも寄ってくるんじゃないか・・・?
(試してもらいたいな。)と思ってしまう。

その昔、箕面公園のアイドルであった猿達が今では凶暴になっているように、
奈良では鹿もちょっと怖くなってるんですけど・・・。
鹿もとっくに美味しい物は「鹿せんべい」だけに非ずと気付いている。
サツマイモだけじゃなく何でも好きです。紙袋も食べますねん。
もうずいぶん昔の話、遠足で奈良公園に行ったときですら
(この私の遠足と言えば、かれこれウン十年前・・おぉ〜怖い!)
鹿は既にお行儀が悪かったのだ。

友達みんなでリュックを一つ所に集め遊んでいたら、
私のリュックに鹿が頭を突っ込んでいるではないか。
慌てて駆け寄り追い払ったが・・・時既に遅し。林檎が無残にも食い散らかされて、
私のリュックは、りんご果汁30%と鹿の涎70%の混合液でベトベトに濡れていた。
「あぁ〜 後で食べようと思ってたのに食べるんだものなぁ〜〜」(西田敏行風・・涙)
その時の鹿の瞳は全然可愛くなかったし、
それからは奈良公園に行ってもシカトしている。

観光地の客寄せだった猿も今は凶暴になっているケースも多いようだ。
この鹿達が客寄せで話題になっているうちは平和だが、
これから先、人々に危害を加えないとも限らない。
人間の都合で利用され客寄せになるうちは重宝される動物達が、
人間の都合で疎んじられることのないように・・・
このまま巧く人間と共存していけることを願わずにはいられない。

想い出 | コメント:6 | トラックバック:0 |
| HOME |